やすばすく

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「それだけ」

関ジャムでメンバーの歌い方の変化を感じたり、歌声や演奏の新たなる魅力を感じたり、ということはこれまでも何度も何度もあってほんとうにありがたい番組です~~~といつも思っておりますが、安田章大さんボーカル・丸山さん大倉さん演奏によるKan Sanoさんとのセッション「それだけ」は近年感じていた安田さんの変化、進化、というものを決定的に目の当たりにしたようなひとときでした。

 

そもそも安田さんの歌声といえば「高い声」で楽曲によって「器用」に歌い方を変える「表情豊か」な歌声で、ここ2年は特に「力強さ」が際立つ歌唱が目立っている、みたいなイメージがあると思うんですが(安田担の最大限の客観視)
歌唱技術もさることながら、もっと、根本的な部分で安田さんの「歌」が変化しているように感じる、ここ数年。

 

安田さんを襲った病気、大きな怪我、グループを大切な人たちが去っていく。「ここ数年」で経験するにはあまりにも大きすぎる出来事の数々を(表に見える事実だけだけれど)見てきたことで、聞く側にフィルターはかかっていると思うし、安田さん自身もそのことによる変化っていうのはある、もちろん、あるんだと思う。
けど、ただそれだけを理由にするのも悔しい、というか違う。
安田さんの培った技術、様々な音楽を聴き、吸収し、また様々なミュージシャンとセッションを重ねる中で磨かれた感覚だったり、そういったものを逃さす手放さず自分の中で育んできたからこそ、今の安田さんの歌があるんだ、ということを前提として、
「それだけ」で感じた安田さんの歌の印象みたいなことを書きたいと思います。

 


とても優しくて、優しさの奥に強さを感じる歌声でした。鳥が羽ばたく様を思い描きながら聞いていました。でもすっごく人間だった。
高音部での力の抜き方、ふわりとした空気感を含ませて、だから裏声でも弱々しく感じないのかなと思います。
歌詞が、あまりにも、安田章大という人の人物像と重なる部分があって、だからこその神々しさもありました。
この曲を安田さんが歌うということの、背景に様々な出来事を重ねてしまうのは自然なことで、安田さん自身もそれはわかっているだろうし、
それでもそれらのことを背負い過ぎずにこの曲を表現できる安田さんが、すごい、と思いました。

 

例えば歌手の方の中には、バックボーンや自分を取り巻く情報を背景に見ないで、純粋に音楽として聴いてほしいという方もいらっしゃると思います。
安田さんだってそういう思いがあるかもしれないし、ないかもしれないけれど。
今の安田さんに感じるのは、そういったバックボーンやイメージなんかも全部引き受けて歌っている、そういった姿勢です。
引き受けた上で、ただただ「安田章大の歌」としてそこにある。もしかしたら本人的には「安田章大の」がつかなくてもいいとすら思っているんじゃないかとすら感じられる。
もっといえば、「安田章大の体と心を通って歌が出てきている」というか…
それは、舞台俺節で北野先生が語った「歌の景色の中に自分が立つ」という言葉を思い起こさせる姿でもあります。
でも決して一方的ではなくて、歌の景色の中で背中を見せながらも、時に静かに振り返り歌の世界を手渡してくれるような感触も感じるのです。
「自分」だけでもないし「音楽」だけでもない、まして「聞き手」だけのものでもなくて。
全てが一体化しているような、安田さんの歌は、そんな風に感じます。
安田章大が歌う」ことで生まれる意味から逃げることも、それをやたらと前面に押し出すこともなく、ただ一体となって呼びかけるように歌う。
だから、安田さんの歌は双方向に感じられるのだと思います。

 

決して背負いたくて背負ったわけではないものを、受け止めて抱きしめて、自らの「使命」を握りしめて生きようとする安田さんの姿が、歌にも滲み出ている…と思うのは私のフィルター越しの景色なのかもしれないけれど、
その生き様を見届けたいし、応援していきたいと、そうあらためて感じるセッションでした。


(このブログを書く前に2年分くらい遡ってセッションを見て聞いてしてたら心臓がはちきれそうになりました…数々のセッションを産み出してくれて関ジャムさん本当にありがとう、これからもどうぞよろしくお願いします)