やすばすく

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リボルバー~誰が【ゴッホ】を撃ち抜いたんだ?~

131年前の明日、ゴッホはその生涯を閉じた。

131年前の昨日、リボルバーで撃ち抜かれて。

131年前の今日、ゴッホはどうしていたのだろうか。

小さな部屋のベッドに横たわり、悶え苦しんでいたのか…それともすでに意識を失い、命の尽きるのを待っていたのだろうか。

そんなことを思いながら、会場へ向かった。

 

 

 

ゴッホはひまわりだった。

テオが土、ゴッホの目に映る風景、人、植物たちが水だ。

そうして、ゴーギャンという太陽に触れて、花を咲かせた。

自分の中から溢れ出す色を、キャンバスに乗せ続けた。

そんなゴッホの生涯と、舞台の上で生きる安田章大という人が、

「命を燃やす」という強烈な一点で重なった瞬間を見た。

…そう感じた舞台だった。

 

 

小説とは異なる部分が大小様々にあり、

特に驚いたのが、登場人物たちの雰囲気とラストシーンの違い。

 

小説ではゴッホ(フィンセント)の主観が描かれる部分はなく、だからこそ舞台の上で感情豊かに飛び回るフィンセントがとても新鮮に感じられた。

まるでよく跳ねるボールのように、何かにぶつかっては大きく弾き飛ばされ、それでもまた違う場所へぶつかっていく。そうして喜びと苦しみを行ったり来たりする姿は、あまりにも純粋だ。

そして、そんなフィンセントを演じる安田さんの瞳は、時に眩しいほどに光を称え、時に闇の中で虚ろにさまよい、私たちと同じではない世界を見ている…そう感じさせる瞳であった。

ファンであることのバイアスがかかっているのではないかと問われれば、そうかもしれない、と答えるけれど、安田さんの瞳には言い知れぬ力が宿っているのは確かだ。だって、この目で見たのだから…。

 

ゴーギャン(ポール)は、よりのらりくらりとした雰囲気と、胸の奥底に持つフィンセントへの愛憎の”愛”の部分が強く出ているように感じた。

池内さん演じるゴーギャンは、その出で立ち、声、存在感すべてが小説から抜け出てきたような質量だった。彼がリボルバーを客席に向けた時、ちょうど銃口がまっすぐ向かう先にいた私は、あまりの気迫に心臓が止まるかと思った。

 

テオは、小説よりもフィンセントに対して”苦悩する部分”がよりクローズアップされているように感じた。そして、パンフレットを読むと制作陣、キャスト陣がテオを「ゴッホの作品に人気が出ると、自分だけのゴッホではなくなってしまうから、絵を売らなかったのではないか」という見方を少なからずされていた、それも驚きで、私にとって新たな視点だった。

だからこそ、兄の才能を信じ、支えぬくというテオの”光”の部分よりもむしろ、兄の才能を確信しながらも同時に兄の存在に恐れも抱いていた、支え続ける苦労と、自分の手を離れていってしまう恐ろしさと…そんな”闇”の部分に、より、スポットが当てられていたのかと思う。

 

ラストシーン、そしてそこへ向かう構成の大きな部分が小説と異なることで、よりドラマチックにストーリーが展開する印象を受けた。

(小説はより緻密に、小さな展開が積み重なっているので、じわじわと大きな波に向けて進んでいく感触がある)

歴史を揺るがす新事実は物語として人々に共有され、ゴッホゴーギャンはより強烈な伝説的存在になったであろう、舞台の世界線

自らの作り出したタブローではなく、二人の人生を大きく変えた(狂わせた、のかどうかはわからない)リボルバーに、高値をつける人々。それを見るゴッホゴーギャンの瞳は、喜びでもない、悲しみでもない、近いとするならば驚き、の色に満ちていたように思う。ああ、そうか、この姿は、舞台でしか見られないのだな、と、今感想をしたためながら思う。

 

 

フィンセントとポール。

罵り合っているのか、褒め合っているのか…側から見ればそんな風に思わせる二人。お互い、もう何が何だか、わからなくなっていたのだろう。

愛し合っているのか、憎み合っているのか…少なくともフィンセントの想いは、愛が強すぎて憎しみになる、そんな形だったように思うが、ポールは一見すると同じ熱量で相手を想っているようには感じられない。

しかしポールが画家としてフィンセントを、テオと同様、もしくはそれ以上に認め、それがゆえに恐れていたのだろうことは強く伝わってくるし、それが彼にとってのつまり”愛とか憎しみ”なのだろうと思う。

 

言葉が彼らの関係を拗らせてしまったのだろうか…

いや、言葉にできない部分の方が圧倒的に大きかっただろう、彼らが互いのタブローに感じていたもの、魂、そういったものは永遠に描かれることなく、彼らのものでありつづける。

私はそのことがとても気高く感じられる。今回の舞台をきっかけに小説を読んだ、ただそれくらいの関わりなんだけれど……彼らが彼らにしか知り得ない感覚、誰にも暴けないものがきっと永遠にあるのだろうということが、とても嬉しい。

 

舞台で大きく小説と異なったシーンのひとつに、「耳切り事件」がある。

あれだけの大喧嘩をして、リボルバーを突き付けてフィンセントを置き去りにし、それでもポールは心無い声からフィンセントの矜持を守った、自らの感情を露わにして。

彼がフィンセントに抱いていたのが、嫉妬心だけであるはずがない。恐れだけであるはずがない。それを象徴するシーンだったように思う。

 

ポールは自らを太陽、フィンセントをひまわりだと称した。彼の中の画家としての炎は、「革新的な作品を生み出したい」という思いによって生まれ、フィンセントとの出会いによって消えることのないエネルギーを得たのだと、そう感じている。

 

自分がテオの重荷になっている。そう気づいた時、一人で生きなければ、と思った時、それができないと悟った時、それはフィンセントにとって絶望だったかもしれない。しかし彼にとっての最大の絶望は、きっと、描けないこと、描くことができなくなること。そんな風に思う。少なくともゴーギャンに出会って以降、フィンセントがその苦しみに晒されることだけはなかった。

ポールのタブローを初めて見て、撃ち抜かれたような衝撃を受けたフィンセントは、その感覚を生涯忘れることはなかったのではないかと、想像してやまない。

 

 

 

フィンセントとテオ。

フィンセントが37歳で亡くなり、その半年後に息を引き取ったテオの享年は33歳。

その歳で、妻子と、兄と、ゴーギャンと、故郷の母と、他にもサロンが抱える若手芸術家たち、従業員たち…どれだけのものを背負っていたのか…そう考えるとテオのすさまじさがより生々しく伝わってくる。時代や性別の違いはあれど、自分に置き換えて想像してみれば、それこそ想像を絶する…そんなこと到底無理だ、と思えるようなことを、テオはやってのけたのだと、驚くばかりだ。

 

どれだけ罵られ、支えることが苦しくなっても、兄を切り捨てなかったテオ。パンフレットの年表を見ると、あまりにも、「兄とゴーギャンを支えることが使命だ」、と意味づけてしまうことが仕方ないと思わされるほど…

傍から見れば、やっと兄から「解放された」ともとれるかもしれない。けれどそれが逆にテオの心を壊してしまった。兄と、兄の才能を守り続けることこそが、テオ自身の心を支えていたのかもしれない。たとえつらく、逃げ出したい役割だったとしても。

なんという人だったのだろう。フィンセントも、テオも。

 

家族愛、兄弟愛、とひとくくりにするにはあまりに複雑で、(一見すればシンプルなのに、)ポールとはまた違う憎しみの形も持ち合わせていた二人の関係。

けれど、テオが、そしてテオの妻が、フィンセント=ファン=ゴッホの作品を世に出したことで、130年余り後の今もこうして、フィンセントのタブローが、そしてフィンセントにまつわる物語の数々が、人々の目に、心に、触れている。

 

テオが土となり育て続けたフィンセントの花はこうして、100年以上も咲き誇り続けることとなった。すべては彼らがいなくなってしまってからの出来事で、どこまでも悲しく、けれども希望を抱けるのは、テオのとてつもない、とんでもない、それこそ歴史に残る功績だ。

彼らを描いた物語に、今、拍手を送れることに喜びを感じた。

 

 

 

フィンセント=ファン=ゴッホ

酔いつぶれた後、目覚めたフィンセントのテオを呼ぶ声。ポールが黄色い家にやってきた瞬間、すべてのエネルギーを喜びとして燃やしたフィンセントの姿。どこまでも無邪気で純粋な、子供のようなフィンセント。
酒に酔い、人を罵り、歯止めが利かないほどの行為に及ぶフィンセント。怒り、自暴自棄、恐れ。描く喜びと生きる苦しみを止まることなく行き来していたフィンセント。

 

自傷することでしか自分を止められなかったのね」と冴は語った。

あの行為を、耳切りという行為を、これ以上聞かせないでくれ、僕の知らない真実を、君たちの本音を……そんなフィンセントの叫びのようにも感じた。
彼が畏れていたのは、唯一の理解者であるテオが、戦友のような存在であるポールが、自らを忘れ離れていくこと。そして、自分が誰からも認められず、絵を描くこともできなくなること。彼の心の真ん中にあるのは、タブローだけ…

 

ゴッホが画家を志してから没するまで、10年。たったの10年。ゴッホは命を燃やして絵を描き続けた。

もっとゴッホが絵を描き続けられる世界だったなら…、と惜しむ気持ちでいっぱいだけれど、流れ星のような10年間…それ以上生き続けることは、ゴッホにとって果たして喜びだっただろうか、と、そんな風にも思う。

一人ではうまく生活することができず、テオに頼る他なく、それでも自らの中にある描くことへの欲求にはいついかなる時も忠実である、逆らうことはできない…。テオの肩の荷を下ろしてやりたい、独り立ちしたい、だけどテオから離れたくない、理解者を失いたくない、描くことだけに注力していたい、そうすることしかできない…

身も心も二つに引き裂かれるような世界を、彼は生きていたのかもしれない。

 

 

 

安田章大

生身の安田さんを見るのはいつぶりだったろう。

そこに居るのが安田さんだ、と思うと心配ごとがいろいろと浮かぶ。骨と皮だけの胸元、照明の光……だけどその瞳は確かに、フィンセントの思いを映していた。ぞっとするような、これまでに出会ったことのないような表情を浮かべ、細胞の全部をつかってフィンセントで在ろうとしている(この舞台の上の、フィンセント=ファン=ゴッホという人物として)姿は、何を惜しむこともなくすべてを捧げているようだった。

それは、神事と少し似ているように思う。

  

どんな役を演じていても、それは演じる、という姿ではなく、命を燃やしている、と…そう感じるようになったのは、安田さんがの病を知ってからだろうか。

いや、そうではない。知る前から、たしかに私は、舞台上に燃える"何か"を見ていた。…わからない、今になってそう思うのかもしれない。今、そう感じている、それだけは確か。

 

舞台上のフィンセントはどこか、この世界とは違う地平をその目に浮かべていたように感じた。人それぞれ、持っている体も部品も違うから、厳密にいえばみなそれぞれ違う世界を見ているのだけれど、もっと…

安田さんには、見えている、というより”見ている”世界があるのだろうな、それは私には見ることはできないけれど、安田さんを追いかけている間に、いつかもしかしたら、少しだけ垣間見ることができるのかもしれない。

 

心配はいつだって尽きないし、おかげで私は自分のファン活動のスタンスを微調整しながら、自分の心の平穏を保つこともバランスをとりながらできるように、…なったのかな、なっていないかもしれない、それを目指して修正を繰り返しているのだけれど。

…ただ安田章大という存在を、その燃える姿を心の中の神棚みたいな、神聖な、大事な場所に置いておくこと。その姿に励まされ、心が躍り、活力になること。
私の、いろんな愛するものたちがひしめき合う神棚の中で、特製の座布団に座っているのが安田さんなんだなと、そんな風に思った。これは、舞台の感想じゃなくて、個人的な気持ち。

 

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この状況下で舞台を観に行くことへの、不安、何が正解なのか、という葛藤との戦いもあった。たくさん考えて、考えて、行くことを決めた。

明日からまた私は、昨日までと同じように、外食もほぼせず、家族以外と会わず、遊びにもいかない日々を続ける。それは舞台に行く行かないに関わらず、選んでいることだ。

私が選んだ今日が不正解なら、その分を日常生活でカバーする。…できるものかわからないし、理屈の話になるかもしれないけれど…。

これはただの言い訳。だけど、行けて良かった。