やすばすく

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20180614

「やっぱり、最後に愛は勝つんだ」という真海の言葉は、柴門暖への餞のように思えた

 

モンテクリスト伯最終回、溜め息すらつけない緊迫感と、見続けてよかった!!!と思えるという連続ドラマの醍醐味を存分に味わえました。最初の方は暖の田舎町の漁師としての佇まいに違和感を感じる~とかえっそれはどうやって?どうなってそうなった?みたいにやんややんや思ってたんですけど、見ていくうちにどうでもよくなった…というかそこじゃねえんだなこのドラマは…!ってなって、そこからはもうぐいぐいと引き込まれていく一方でした。「もんて~くりくり~!」ってなんだったんだ!!!(スキャナーの時の、広告や宣伝のテンションと本編とのものすごいギャップを思い出します!!!)

 

勢いに任せて感想を書いておこう!と思って、登場人物の確認をするために人物相関図を見て、みぞおち突かれた感じになっているんですけど、はあ…

幸男が「幸男」であることに希望の意味が含まれてたらいいなっていうのは前に書いたんですけど、ああ…

暖を貶める計画を立てておいて自分の手は汚さなかった、そしてその後賄賂にまみれて事業を大きくしていった神楽は「清」。保身のために真実を捻じ曲げ人の人生を、命を闇に葬ってきた入間は「公平」…海の底から生還した「真海」…

すみれの花言葉は「誠実」…色によっては「貞節」「あどけない恋」「つつましい喜び」「希望」…

原作を読んでいないので何がどうなってこの名前なのかはわからないですけど、名前のことを考えただけで苦しくなるほどはまってたんだなあ…(私が)

 

愛と金と地位を求めた男たちが、手に入れた全てを失っていく様は、決して痛快なものではなく、痛々しく、”そっち側”の恐怖に共感してしまうほどすさまじいものだった。

幸男を贔屓している自覚はあるんですが(笑)「暖ちゃんと初めて会った時、やばい、って思った」「すみれは絶対こいつのこと好きになるってわかった」と吐露する幸男の気持ちは痛いほどに切なかった。想い人を奪われたくないがために親友を陥れたり、金を工面するために恩人の家への盗みの手引きをしたり、やっていることは同情できるものではないけれど、一貫して変わらないすみれへの想いを抱き続けている幸男をどうしても”クズ”と呼べないんですよね…

病院でボールペンを喉に突き付けたのも、すみれを人殺しにしたくなかったんじゃないかと思えてくる…だって…守ってるんだもん、最後まで守ろうとしてるんだもん…「君を守れなくてごめんなさい」という後悔を、自分の身を挺して拭っているんだもん…!!

暖ちゃん、って、呼ぶんだもん…

真海を助けようと火の海に飛び込んでいったのは、すみれを悲しませないためか、それとも親友だった「暖ちゃん」のためなのか…いや、幸男はそこまで深く考えないのかもしれない、だからこそこれまで大きな過ちを繰り返してきたわけだし。でもその幸男の性質が、完全な悪として描かれてはいないんだな、っていうのがあのシーンで私的にはよくわかった感じがしてとても救われました、頑張れ幸男…なんとか幸せになってくれ…

最終回、一番グッときたのはワインを飲みながら「もうどうなってもいいよ」と呟くシーンでした。希望も欲望も何もない、心からのどうなってもいいよ、が声音にみっしりと詰まっていてすげえ…って思った。そして最終回終わって改めて7話の幸男の涙を見返して、このシーン、この表情が見られたことが素晴らしい宝物だよ…とヲタとしては思うのでした。

そして凄まじかった入間公平。というかとにかく凄まじかった入間家。高橋克典さんの悪~~いナイスガイがビジュアル的にもドンピシャで気持ちいいくらい悪くて最高でした。瑛理奈が映ると怖いことが起こるからいつも志村!後ろ後ろ!!みたいな気持ちで見てたけど、一話からちゃんと見てると、あの凄まじい入間家が決して大袈裟には見えないし、入間家によってグッとこのドラマに引き込まれるような感じがしたんですよね…悪の放つ芳しい香り、みたいな。「怪演」という言葉が相応しい夫婦!!

常に人の上に立ち、威圧し、操ってきた入間の「俺はただ幸せになりたかっただけだ。立派な人間になりたかっただけだ」「正しくて、強くて、愛のある、尊敬されるような人間になりたかっただけだ」という本音は、どこまでもまっすぐで、純粋で。保身のために全てを費やしてきた、周りの近しい人たちにまでそう思われていた入間の、まるで子供のような願い。入間の心の中には、そういう、一点の曇りもない場所がもしかしたらあったのかもしれない。それを守るためには、どれだけ汚れた手段を使おうが、誰が犠牲になろうが厭わなかった。そしてそれは瑛理奈も同じで…そう思うと、崩壊してしまったあの夫婦がとても痛ましく感じる。未蘭ちゃんは一人で貞吉さんと瑛人の世話をして行くのかな…どうか信一朗よ支えになってくれ!と願ってやまない…

かぐにいのことはあまり深く考えていなかったんですけど…一番、何を求めているかがわからなかったのが神楽。金への執着はすごく伝わってくるのに、その金の先は見えない。でもそれこそが神楽なのかもしれない…!(こじつけ…)最も冷静に、打算的に、自分に損の無いように事を操ろうとしていたけれど、神楽自身自分の求めるものが何なのかわかっていないのかなあ、と感じた。幸男や入間に比べて、いや、だからこそ終盤まではひたすら冷静であり冷徹で在れたのかもしれない。愛だとか名誉だとか、形にできないものに振り回されないで居た男…だった…

そんな男の傍らで、お飾りの人形のような生き方を強いられてきた留美が、その枷を外れてどんどん強くなっていく様は、その先に破滅が待っているのでは…!と心配になりつつもこのドラマの光の部分だったように思う。

真海が立ち去った後、留美がつぶやく「神様…」は、単純な天への感謝かもしれないし、真海を神のように思うところがあったのかもしれないけれど、確実に留美は深海によって過去の深く暗い闇から解放された。他の登場人物たちもそう。真海によって、背負っていた深い後悔や執着から皆解放されている。そういう点では真海は神様的な存在感を持つけれど、…ただ、解放された先が幸せであるか崩壊であるかは知る由も無し、な感じは、やっぱりそうじゃないような感じもする。

後悔や執着の火種になったもの、それを庇いながら生きてきた、その人生で得たものを全て壊さなければ、彼らが解放されることは不可能だったのかな…

 

話を三人に戻すと、彼らに共通するのは、「誰かの幸せを犠牲にしても、自分が幸せになりたかった」…だろうか…

そして、意図せずして暖自身が、それを体現していた。意図せずして、だから根本的に三人とは違う部分もあるけれども。そしてそのことに、真海は気づいていたんだね…!!人の気も知らずに的なことをこの前つらつらと書いちゃったよ!ごめんなさい!!

真海という人は、暖であり、暖ではなかったのかなあ。暖であった自分を愛しているけれど(だからこそ復讐をするんだろうけれど)、赦せない部分、憎んでいる部分があったのかもしれない、とechoの歌詞を読みながら思いました。この歌詞が凄い…もう…このエピローグがあってこそこのドラマが完成するんじゃないかな…っていうくらい、ほんと、ドラマの内容と主題歌のマッチって、真剣に見ている人にとってはものすごく嬉しいことですね!!!

真海は誰を赦したかったのか。誰に赦されたかったのか。

笑顔を向けながら心の奥では自分を憎み、挙句自分を地獄へと突き落とした幸男と神楽と入間を。愛を誓ったのに、自分を待っていてくれなかったすみれを。

思い続けていた女性を親友に奪われた幸男に。長年働いて、ようやく自分に巡ってくると思った地位をたったひとつの出来事で奪われた神楽に。愛を誓ったのに、騙され陥れられて離れ離れになり、一人で辛い思いをさせてしまったすみれに。

周りの人たちの苦しみに気がつけなかった自分を。憎悪こそが生きる唯一の意味だと、自分を縛り付けていた自分自身に。

赦すことは、簡単なことではない。過去に自分を傷つけた、酷い目に合わせた人に赦しを与えるということは、その時に傷ついた自分を、抱いた悲しみや怒りを、ないがしろにすることでもあるから。自分を大切だと思うほど、過去の自分を見捨てられない。だけど、赦さないまま生きていくことは、「赦す自分を許さない」ことであって、そっちのほうがずっとずっと、ずっと苦しい。赦せない、から忘れられない。未来ではなく、過去を見て立っている。真海の一番の苦しみは、自分を、周りの人たちを、赦せないことだったのかな。と、思います。火を放って、復讐のために生きてきたモンテ・クリスト・真海という人間を終わりにして、柴門暖からも、モンテ・クリスト・真海からも解放された。

幸せ、とはなんだろう、自分を幸せにするためには、どうすればいいのか。人の幸せを踏み台にせず、自分も幸せになることは不可能なのか。幸せが共存することは、不可能なのか…そんなことを、ぐるぐると考えさせられるドラマでした。そしてどこまでもまとわりつく苦しみと、その合間から見える光を感じるドラマでした。

でもやっぱり苦しい!!!