やすばすく

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羊の木

映画「羊の木」を観ました。

初日と2月末に観て、だいぶ時間が経ってしまいましたが感想を書きます。

 

一回目はとても怖かった。ざわざわとした苦みが胸を占拠して、”希望”というものがあまり見えなかった。宮腰という男がとても怖かった。轢き殺した杉山をバックして入念に踏みつぶしたのも、一度手を緩めた後月末の腕を掴んで海へ飛び込んだのも。月末の部屋でギターを練習した後、眠くなったと横になり口にする「疲れた」の意味が、人を殺してしまったという精神的疲労というより成人男性二人を車に運んだ肉体疲労のことをさしているように感じられて、とても怖かった。それと同時に、宮腰に対しての理解を「怖い」だけで終わらせたくない、という気持ちもあった。”人間らしい”部分、”理解できる”部分を探して、思い出して、海に沈んでいくエンドロールの文字にそれを重ねながらスクリーンを眺めていて、流れてきた「DEATH IS NOT THE END」の文字と繰り返される「not the end not the end」という優しい歌声になんだか絶望した。死んでも終わらない、というのは、宮腰にとっては絶望じゃないか、って思ったから。

 

宮腰のシーンではないけれど、一番怖くて思わず目を瞑りそうになったのは、最後に交差点でバイクの文とすれ違うシーン。角を曲がる瞬間に大型トラックが突っ込んできて文が弾き飛ばされてしまうんじゃないか、っていう恐怖が一瞬でぶわっと膨らんでとてもとても怖かったけど、なんで怖かったんだろう?というのはその時はわからなかった。

 

それで、ザワザワとしながらパンフレットを読んだら、演者さんや監督の言葉の中に求めていた部分の答えの糸口があった。

以下、パンフレットのインタビューより引用します。

 

松田龍平さん

『善悪を超越したということではなく、どこまでも人間社会のルール内でもがいている男として、宮腰を表現したいと思ったんです。』

『彼はたぶん、心に恐ろしいほど大切なものを抱えている気がするんです。あるいはそれは、他人から見ると「それだけのこと?」と思うくらい些細なことかもしれない。でも、宮腰の心には誰も入れない領域があって、それを守るためなら簡単に人を殺してしまったりする。劇中の行動だけ見ると無邪気さと冷酷さの振れ幅が異様に大きく想えるけど、決して二重人格ではなく・・・・・・。彼の中で「魚深という新天地で平穏に暮らしたい」という気持ちと実際にとった行動は、ごく自然につながっているんじゃないか。演じるうちに、そう感じるようになりました。』

『何かに固執してしまう気持ちは誰の心にもあるはずだし。常識的な顔で生きている人でも、ひとつ条件が変われば平気で恐ろしいことをしでかすかもしれない。宮腰の場合は、その尺度が社会のルールとズレていただけで・・・・・・。決して僕らと遠い存在ではないとは思っています。』

田中泯さん

『価値観の違いを、人はどこまで許し合えるか。人間が人間として許せる限界はどこにあるのか。』

吉田大八監督

『この映画で僕は、人が誰かを信じたり、疑ったり、受け入れたりする風景を、ちょっと奇妙な設定のもとに描いてみようとしました。ただ、その問いをどこまで真摯に突き詰めても、人間には答えが出せないこともやっぱりあると思うんですね。おそらく宮腰というキャラクター自身、そういう葛藤をずっと自分の中に抱えて生きてきて・・・・・・。それで最後に、自分を「友だち」と呼んでくれた月末を巻き込んで、あんな賭けに出たんじゃないかなと。そして、魚深の町にはたまたま”のろろ”という人間の意思を超えた存在がいた。』

『あるいは彼(月末)は、どう頑張っても救われない存在について、ある苦しみと共に思い知ったかもしれない。ただ、それは必ずしも人間への絶望は意味しない。』

 

このお三方の言葉を読んで、宮腰という人間の見え方が変わった。宮腰のことを怖いと思いながら、どうにかそんな宮腰を理解しようとしていた自分にも気付いた。だから、”怖い”の正体は、”わからない”だったんだな、と思った。

 

それから二回目を見て、またいろんなことを考えたし、想像しました。

宮腰が海に飛び込んだのはなぜか。一回目に観た時は、刑務所に入っても、魚深に来ても同じ結末の繰り返しで、じゃあ生を投げ出してみよう、という気持ちのように見えた。「試してみよう」という並列の選択肢の中の一つで、飛び込むこと、死んでしまうかもしれないこと、がそれほど抜きんでて重い意味を持っているわけではないように感じた。じゃあなぜ月末を連れて行ったのか。友達だったから?宮腰にとって友達とは何?そう考えてみてもわからなかった。宮腰にとっての唯一未練らしきものが月末だった、それはもしかしたら月末が、罪を犯し始めて社会的なルールから外れて以来、自分を異物と見なさない初めての人だったからだろうか、と思った。

 

二度目に観た時には、違った。そんな軽い感覚で飛び込んだようには見えなかった。宮腰は杉山から「何も考えないで殺しちゃう奴」と言われて、宮腰自身は何も考えていないわけではないけれど考えても無駄、という思いは持っていたかもしれなくて。「人殺しだよ。昨日も、今日も。たぶん、この先も。」という宮腰の言葉は、諦めじゃなくて絶望だ。DEATH IS NOT THE ENDなのだとしたら、宮腰の絶望は終わらないじゃないか、と思った。宮腰の言う「この先」は、現世で生きていたとしての未来だけじゃなくて、転生というものがあり得るとしてその先の人生までも含んでいるように感じたから。じゃあ、終わっても、終わらない。宮腰の衝動は、どうなれば異物ではなくなるのか。人間の社会、現代の社会、日本の社会、生き物の社会、いつ、どこに属すれば宮腰は異物ではなくなるのか。そう思うともっと苦しかった。

 

杉山は魚深に来た時からすでに、諦めていた。社会でおおよそのルールとされているものに馴染めないことを社会のせいだ、と折り合いをつけていた。馴染むことをすでに諦めていた。諦めた先には「船の上で薬の受け渡し」とかする社会という居場所があったから諦められた。そこでなら自分は生きていけると思っていたから。

でも宮腰にはその、諦めた先、が無かった。だから諦められなかった。もし月末に出会っていなければ、宮腰は杉山の誘う社会に足を踏み入れて、もしかしたらそこを居場所にして生きていけたかもしれないし、そうじゃなかったかもしれない(その社会に流れるルールでさえ、宮腰には適応が難しいものかもしれないし)。でも、宮腰が選びたかったのは、月末のいる方の社会で生きていくことだった。だからもっと、諦めることができなくなったんじゃないかと思う。

それでも、月末に人を殺めたことを勘付かれて、自首を勧められて。ああ、こいつも俺を許さないんだ、と思ったから首を絞めたのかもしれない。そういう、悲しみに近い感情が、意識下にあったのか衝動の裏に隠れてしまっていたかはわからないけれど。でも、月末は宮腰に怒鳴った。「友達だろ!」と言って怒った。「月末も自分を許せないのだろう」というのは、これまで周りの人間から許されてこなかった宮腰の先入観だった。月末がそういう次元で自分を見ていないということに気付いた時、宮腰は動揺したのではないかと思う。月末の手を引いて、共に海に飛び込むこと。命を懸けた審判を二人で受けること。それは、一度は月末を諦めて、社会を諦めて、生を諦めようとした宮腰が、それでも希望のようなものを見せられて、心は揺らいで、それでももう諦める選択肢しか選び取ることはできなくて、そんな中で最後に特別な絆を結ぼうとした姿だったのかなあ、と、思った。だから私は、宮腰にとってはDEATH IS THE ENDであってほしかった。「この先」にまた同じ繰り返しが待っているとしたら、宮腰がそう思っているとしたら、終わらないことは苦しみであり絶望だと思うから。

 

だけど、DEATH IS NOT THE ENDを希望として胸に抱く人間もいる。栗本清美は死んでしまった亀を校庭に埋めながら、「さよならじゃない。木が生えて、また亀に会えるから」と言った。命を落としたものを土に埋めて、そこから芽が生えるのを清美は見た。

この映画において、清美はDEATH IS NOT THE ENDが希望であることの象徴だと感じる。転生というものを信じているかどうかは定かでないけれど、死の先に何かがあることは、清美は信じているように見えた。「私が、私は、怖いです」と清美は言った。人の命を奪ったということが清美のパーソナリティーに強烈に焼き付いていて、だから再生を願うんだと思った。再生を願っているのか、鎮魂なのか、それとも恋人も夕飯の魚もゴミ箱裏の小鳥も土に埋めることで同等のひとつの”死”にしようとしているのか、とか、とか…いろんな風に考えられるけど、清美が両手で形作る土の下から芽生える希望が、枯れずに、折れずに、長く育っていってほしいと願わずにいられなかった。それが私にとってはこの映画の希望だった。

大野もまた、自らが行ったことを真っ直ぐに見つめている。社会のルールがあることを理解して、穏やかにそこに溶け込もうとするし、溶け込めないのならしょうがない、という諦めもある。その諦めは他に居場所があるから、という諦めではなくて、溶け込めずとも片隅で生きていく努力を繰り返していこう、という覚悟の上にある諦めに思える。「馬鹿だったと気づいた時にはもう遅い」という大野の言葉が、跳ね飛ばされる杉山を見ながら頭のなかに響いていた。

福元は、居場所があることを心から感謝しながらも、この先も欲望や衝動に負けて、後悔して、泣きながらまたやり直そうとする、そんな繰り返しを続けていくんだろうなと思った。その表出が人を殺めるというところに達してしまっただけで、繰り返すその形は誰もが持っているものだと思う。

「人を好きになっちゃいけないんですか」と問いかける太田理江子だけは、自分を犯罪者だと心の底では思っていないのかもしれない。ルールがあることもわかっている、自分のしたこともわかっている、けれど私には正当な理由がある。それを理解してくれない社会は悪だ。そんな風に感じられるところは、杉山に近い気がする。杉山はそこでこの社会で生きるのを諦めようとしていたけれど、理江子は私は間違っていない、という思いを抱えながらこの社会で生き続けようとする。傲慢なように見えるけれど、自分自身に「犯罪者である」というラベルを貼り付けることはとても難しいことだとも思える。もし自分がそうなったとしても「どうしてわかってもらえないんだろう」「わかってくれないほうが悪い」というふうにして感情を処理しようとするかもしれない。誰かが作ったルール、みんなが守ろうとする善悪、それだけで自分という存在を判断しようとするなんて、やっぱりできないかもしれない。どれだけ自分に言い聞かせても。

理江子と同じくらい、もしくはそれ以上に”傲慢だ”と感じたのが文だった。わかっていても見ないふりをしたり、想像できることをしようとしなかったり。それで人を傷つけたとしても、見ない。自分のテリトリーに厄介なことは存在しない、と思うことが、彼女が培ってきた自分を守る術なのだろうと思う。文の行動は一つ一つが自分本位で、だから月末は振り回されるし振り回されてきたんだろうなと思うけど、二人がそれでいいんだったらそれでいいんだろうな。月末が死んでしまうかもしれないと思って初めて文は自分から月末に手を伸ばそうとした、ちゃんと見ようとした。

初日に観て一番怖かった、文が交差点をバイクで曲がるシーン。私があれをとても怖く感じたのは、文に対して「天誅が下るんじゃないか」とどこかで感じていたからだと思う。一度は海面に浮んで助かるかに見えた宮腰が、のろろ様に潰され海の底へ沈められた。”天誅”に見えるあのシーンの後だったから、「身勝手な文にも何か起こってしまうのでは」と思ってそれが怖さになった。文がどうこう、というよりは、これ以上月末が悲しんだり苦しんだりすることが起きませんように、という願いの元の恐怖だった。って書くとよっぽど私は文が好きじゃなかったんだな、と思うけど確かにその通りで、見ないことで関わらないようにしたり、想像しないことで終わらせようとしたり、そういう部分で自分と重なるところがあったから、見ていて辛辣な思いを募らせるほどに自分を責めたくなった。

 

 

 

”怖い”の正体は”わからない”だった、と書きました。じゃあ”わからない”を理解しようとする行為は何なんだろう。怖いという気持ちもその行為も、人間の防衛本能に基づきます、的なものに思える。「怖い」なら排除をする、遠ざけたり自ら離れたりする。「理解しようとする」は、わからないをわかるに変化させて、自分の中の安心できる場所にしまおうとする、ということだろうか。それってなんて自分本位なんだろうとも思うし、だけど自分本位で何が悪いとも思うし。理解までしなくても、受け止めて在ることを認め合う、というのがきっと他人と関わるうえで最も”お互いを尊重する”在り方なんだろうなと思うけれど、そこまで辿り着くことも難しいし、そこで手放すことも難しいから、やっぱり異物を排除せよ、ということになったり過剰に味方意識を巡らせて結果またそれが今度は他の敵意識を生んだり、ということになるんだろうなあ、と思った。

 

のろろ様、というものがもし自分の生まれた町に在って、暗い闇の中にのろろ、ろろの、と低い声が響くあの祭りを幼い頃から見てきたとしたら。のろろという恐怖を幼い頃から刷り込まれることで、恐ろしいものを異物、自分とは違うもの、人間ではないもの、として脳が処理するようになっていくように思う。自分で考えたり、意図的にカテゴライズができるようになっていった時、わからないもの、わかりたくないものを人間ではないものとするようになる。それは逃げであり自衛であるけれど、異物という袋に覆われる方にとっては一方的な暴力だ。理江子になぜのろろを見てはいけないか問われた月末の父の答えは、「みんながやり続けてきたことは守った方がいい」。劇中で最も怖い言葉だと思った。どうやったって自分を守るために生きてしまう。それを自分の意思ではなく、「みんなと同じだから正しい」と理由づけしてしまう。自分で考えることをやめてしまう。自分の行動に根拠がないことに気付けない。

 

 

だからこそ、クリーニング屋の店主が大野に放った言葉が胸に響く。

「あんたのせいよ。あんたのせいだけど、あんたちっとも悪くないじゃない」
「私はあんたが悪い人だなんて肌で感じたことないんだけど」

二度目に映画を観た時、自販機のボタンを押す宮腰の動きが、勢いをつけて人を刺すかのように見えた。これは先入観だ、と気付ける自分で在りたいと思った。