やすばすく

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私と抱き合う私、2.54センチ

ヘドウィグ・アンド・アングリーインチを観劇してきました。

というよりも、ヘドウィグに会ってきました、の方がしっくりくる。

「映画見てから行ったほうがいいよ!」とのネットの声に従い、

前日に滑り込みで観た映画版ヘドウィグ。

この世界とこの映像を、日本の演劇で再構築することが可能なの?とか思っていたのは完璧に杞憂でした。

むしろ、映画と舞台で解釈を補完し合っているようだった。きっと、初めの舞台と映画がそういう関係性で作られたんだろうな…というのは今気づいたことです。


舞台上のヘドウィグはより一層アングリーで、感情を爆発、暴発させながら生きていて、ちょっぴり、いや結構意地悪。ヘドウィグの感情で場面が切り替わっていく、スイッチの役割も果たしている。

時に静かにしっとりと、時に叫び怒鳴りなじるヘドウィグの姿は「不安定」と名前を付けてしまえばそれまでだけれど、それはヘドウィグが生きる術として身に付けたものなのだと感じました。

幼少期、父親から受けた「ひとつに戻ろうとする行為」が、母親が「自分に触れようとしなかったこと」が、ヘドウィグの心に”完全体”への渇望を芽吹かせたのだろうか、だとか…

それは自分の心を守るための道、だったはずなのに、求めれば求めるほど、自分は不完全だと突き付けられる。だけど、ヘドウィグにとってその渇望は推進力になっていたから、手放すことはできなかった。

そんな風に感じました。

 

完全体になることを求める、ということ。歳を重ねて社会に適応するうちに諦める人、忘れる人。初めから求めない人もいるかもしれない。そして、自分の方法で探し求め続ける人。しがみついている人、きっとそれが見つかれば自分は最良の自分、最良の人生を送ることができると信じている。
恐れるは不幸になること。悲しみや恐怖や怒りに晒されながら、疲弊しながら生きること。完璧、な状態、愛に包まれた幸せな状態…それを夢見ることで、なんとか生きているのかもしれない、ヘドウィグだけじゃなくて、私もそうだ、とってもそうだ…と思いました。
たぶん、絶対的な存在が欲しいのです。自分が不安定と思えばなおのこと。揺るがないもの。いつでもそこに帰ることができる存在が。


ヘドウィグは、出会う人、自らを取り巻く人、愛する人、彼らが起こす波の中に揺蕩うまま、いつだってその世界に頭のてっぺんまでつっこんで生きている。だから傷つき、暴発する。それが彼、彼女。

ロックは武装、歌は声であり、言葉。自分という人間として生きていくための呼吸だった。

 

全てを脱ぎ捨てた時、ヘドウィグの心には何が残ったのだろう。カタワレを探す旅が終わって。

それでも、その背中を追いかけて最後の最後までを見届けたいと思わないのは、ヘドウィグがまた新しい人生、(あるがままの自分を連れて)また新しい姿になっていくんだろうな、観劇者はその時点でヘドウィグにとってはへばりつく過去なのだ…と思うからかな、と考えます。

 

ステージの上でのヘドウィグは、もう、なんていうか、歌手だった。歌を届ける人。歌で表現をする人。言葉にするとすごくつまらないみたいに感じるけれど、歌手という人が人間の世界で役割を得て存在しつづけることの意味みたいなものを感じます。

丸山さんの歌声は時に体を突き刺し、時に包み込む歌声でした。なんだろう、とても上手なんだけれど、「上手」では決して終わらせたくない歌声だった。最後の曲を聴いている時、頭の中が真っ白になっているのに涙が込み上げてきたのは、完全に丸山さんの歌声の作用だった。

 

しかしなんで、あんなに”オゲレツ”なのに、気品のあるオーラが漂うのだろう…というのが終始不思議でしたが、それこそが丸山さんがヘドウィグを演じることの産物かなと思っております。

1インチは2.54センチ。1インチは2.54センチ。