関ジャニ∞に、やすくんに出会ってなかったら、好きになっていなかったら、私はどんな人間になっていたんだろうって時々思う。
人は、他の人やモノや、出来事や風景や、音楽や言葉や、たくさんのものと出会うことで自分を形成していくけれど、
その中でも関ジャニ∞との出会い、安田章大さんとの出会いは私にとって大きな大きな出来事だったと思う。
かれこれ10年以上、関ジャニ∞は私の楽しみであり、支えであり、励ましであり、癒しであり続けている。
やすくんの姿勢や言葉をじっと見て聞いて、その全てを理解してます、踏襲してます、なんてことはないけれど、それでも時間をかけてちょっとずつ心の中に溶け込んできている…気が、している。
崇拝ともちょっと違う、たまにここの考え方捉え方は違うなあって思うこともあるから、でも相手が好きな人だとわりとすんなり「ああ、そういう考え方があるんだなあ」という受け止め方ができたりするので、それってなんかいいなぁって感じだ。
(相手を好きでも嫌いでもそう思えるのが目標だけど!)
関ジャニ∞に興味を持たず、やすくんを好きにならなかった世界線の私がどんなやつになっていたかは、今となってはなかなか想像も難しいけれど、
それでもまあ、いいやつとは言い切れないけど、それほど悪いやつじゃないよ、くらいの私にはなれてるんじゃないかなって思うし、そこに関ジャニ∞とやすくんの存在が多分に、多分過ぎるほどに影響していることは確かだろう。
やすくんを好きになってから、靴を脱いだら揃えるようになったし。
世の中が大変な状況になってから、私は現状、じっと家にいる日々を過ごしている。買い物や人の少ない時間の散歩はするけれど、極力家にいる。運動不足待ったなしなので、バッキバキ体操第一とテレビ体操を毎日欠かさずやっている。雑誌の整理をしていたら重さで肩を痛めた。ストレッチもした方がいい。
ごく個人的な事情として、やっと社会に復帰できるぞ!!と張り切っていた矢先に状況が変わって今に至るので、社会と断絶してる感を強く感じているし、
この先大丈夫だろうか感だとか、家族や、大事な人たちの健康の心配だとかはもっと強く感じているし、
気を抜けば自分の無力さに飲み込まれてしまいそうになる毎日だ。
ニュースを見れば見るほど、あまりにも自分が何もできないことを思い知る。心がぐさぐさとなる。
だから、今週の火曜、やすくんのラジオを聞くのが少し怖かった。
タイムラインでいろんな方の反応を見た後だったから、自分が不安定な状態で、大事な人の言葉を受け止められるのだろうか、とか、そういう不安が芽生えて、緊張していた。
それでもやっぱり聞きたくて、気持ちを紛らわせながら再生ボタンを押した。
やすくんの声は、震えていた。
目を閉じたら、話しているその表情が浮かんでくるみたいで、それは私の頭の中の想像だけど、心の中の水面が同じように揺れる、そんな感じで気持ちが伝わってきた。
やすくんの心のうちを、何百万分の一もわかっていないかもしれないけど、でも、伝わってきた。
私は泣いていて、今思い出してまた泣いているけれど、不思議とその揺れは私を不安にはさせなくって、
むしろ不安定だった心が支えられたように感じた。
聞く前の、受け止めよう、とか思ってたの、それはちょっと驕りだったかもしれない。励ましを受けながら、応援をしながら、この人と同じ時代にいられることを嬉しく思った。
ちょっと…自分のことばかりで今書きながら自分が嫌になっているけれど…
やすくんが話してくれた言葉と声を聞たから、私は、今この状況の中で、目の前のことをひとつひとつやっていこうと思えた。
何もできない、って落ち込んだら、それをこえるくらいありがとうって思って毎日を送りたい。
好きな人が、大切な人が、大切なものを失って、
それでもやっぱり、その人になることはできないから、自分にできることをして、自分の生活を続けていくしかない。
その人が見せてくれた心の中を大切に、想って、寄り添えなくても人生の中の一瞬をただ一緒に立ち止まって、感じたり、考えたりして、生活をしていきたい。
目に見える場所に、声が届くところに、立っていてくれてありがとう。
大切に思える人がいることが、私の支えだ。