やすばすく

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安田さんの言葉を受けて考えること

ここ数日のボク。を読んで、投げかけられた宿題(と私は感じる)に対して、なかなか向き合えずにいました。

文字面を目で追いかけるだけでは踏み込めなかった。たぶん、安田さんの想いが大きくて、それを一度に受け止めて頭で処理することができなくて。

「なんとなく感じたものをなんとなく体に染み込ませていつかそれが行動として現れる」みたいなこと、大事だと思うんですけど、私は頭で納得したい…というタイプなのであれこれと考えていました。

安田さんは、自分が発信したものを各々で受け止めることはしてほしいけど、分析はしてほしくないんじゃないかな…とかそんなことも思って。

ただ、私にとってはこれが「各々で受け止めること」の工程でもあるので、やっぱり書いてみようと思います。

 

安田さんのボク。の文章から感じるのは、

”「命を感じて生きること」の大切さを伝えたい気持ち”

”「アイドルは自分の一側面である」と強く思っている気持ち”

大きく分けるとこの二つのように感じました。

そして、安田さんの抱いてきたアイドル像と、今安田さんが大切だと思っていること、伝えたいと思っていることがかなり離れた場所にあるものだということ、けれどアイドルという立場にあるからこそ語りかけられる層があること、そういったことに対する葛藤…というものが、文章に現れているように感じました。

 

最初に読んだ時に、すんなりと受け止められなかったのは、安田さんに対して「誰に向かって憤っているの?何を見たの?」という気持ちが起こったから。文章のところどころに強い言い方、怒りの表現があるな、と感じたからで。(文字だけだとどうしてもそういう部分は強調されて感じやすい、ということもあると思います)

少なくとも、ある程度安田さんを見て、その言葉を聞いてきた時間を経ているファンは、安田さんが突然こういったことを言い出した、とは思わないと思うんです。

安田さんの示してきた考え方だとか、そういうものの段階を踏んだ先に今があって、だからアイドルとしてキラキラ輝く安田さんが好きなことと、安田さんが命について真剣に投げかけることはその両面があって何もおかしくないと、私自身感じます。

 

じゃあどうして、「アイドルがこんなことを言うのは…」ということが強く語られているのかって考えると、

以前からご自身の髪型だったり髭だったりについてアイドルらしからぬ、というテイストの表現を(ここ1年は特に)することが多かった安田さんで、

そこにさらに「マタギになりたい」が加わるとそれに対する反発(どこへ向かっているの的な)のファン発言が増えて、それを目にしたのかな?というところに至って。

「アイドルなのにマタギって(笑)」→マタギになりたいのは理由がある、命をいただくということをこの身をもって感じたいから(ここは想像)→その思想の部分を伝えたい→それを伝えることはいわゆる”アイドル”とは乖離しているかもしれない、それでもボクはボクだから伝えたい

みたいなことを…勝手に想像しました。ほんとに勝手な想像なんですけれど。

きっかけはなんだったんだろう、と考えてこういう想像をしました、という話。

 

そんなに「それを望まない人」に対してあれこれ感情を働かせなくてもいいよ!そういう人たちは自然と離れていくと思うよ!いろんな面があるうえで安田さんを好きって人は自然と傍に残るよ!なんて私は思ってしまうのですが、

もしかしたら安田さんはそういった人たちも切り捨てないで、考える種を贈りたいっていう感覚があるのかもしれない、そしてそれを使命のように感じているのかもしれない…かも…しれない。

 

ステージの上で、カメラの向こうで、キラキラしてる安田さんが、私は大好きです。だけどそれだけじゃないです。

自分が見たい姿だけ見られるとも思っていないし、「こういうことはあまりしてほしくないな…」と思うことがあったとしても、自分の思いだけで人を変えられるなんて思わないから、「こうしてよ!」って思ったとしてもそれはそう思ったという事実が生まれるだけのことで。

ああ、でも、こうして考えてみると、私は安田さんの見せてくれている部分だけを見て好きでいるわけで、それって「キレイな夢世界」とどう違うんだろう、とか、そんな風にも思えてきちゃう…

 

とかく、なんだか、安田さんの「アイドル」というものと自分の狭間との葛藤をすごく感じるんです。

それが周りからの声なのか、自分が昔から抱いてきた「アイドル像」によるものなのか、制約のある環境からなのか、わかりませんが…

「アイドルなのに」という自分の部分と、「アイドルだから」こそできることが、乖離したり反発しあったりしているの…?と、感じて。

どちらも自分で、自分にはいろんな面があって、それでいいんだ、ということを自分に言い聞かせているようにも見えるし、言い聞かせ終えてそれをファンに語りかけてくれているようにも思います。

たぶん大事なことは、「いろんな面があっていい、自分というものを手放さないで、命を感じて、どう生きていくか考えてみようよ」ということだと、私は受け取りました。

 

安田さんがしたいのは、ボクの言葉を鵜呑みにして教科書にしてください、ということではなくて、投げかけた言葉や考え方が読んだ人、安田さんを好きでいるファンの人たちの心の中に波紋を起こして、各々の経験や考え方と照らし合わせて「考える」ことを促す、ということなんだと思います。

 

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まだ小学生か、それより小さかった頃。私はあるお店の小ぶりな骨付きチキンが大好物で、毎回必ず注文してもらっていた。

ある時、いつものようにおいしいなあって喜んで食べていたら、骨と肉の間から血が出てきた。それ以来、骨付きの肉が食べられなくなった。

それに関連してかわからないけど、レアの部分があるお肉も苦手だし、ホルモンやタンも苦手。大人になって頑張れば食べられるようになったけれど、進んで食べようとは思えない。

「生きていた時の形」がわかるものが、こと食肉に関して苦手になったんだと思う。

 

なんで苦手になったんだろうって今まで考えたことはなかったのだけれど、きっとそれが私にとって、それまで何も考えず食べていたものが「命が通っていたものだった」ということに直面した初めての経験だったからではないかと思う。

 

料理をするようになってからも、肉を切るのがどうにも苦手で、気を紛らわせていないとできない。野菜なんかでも、使わずに時間が経って傷んでしまったら申し訳なくて、謝ってから捨てる。

「命をいただいている」ということから目を逸らしながらも、頭のどこかでは常に意識にあるのかな、と、そういう感覚でいた、今までは。

この間まで、豆苗を育てていた。自粛期間中に何かを育てたい!という気持ちが強くなって、手始めに!みたいな感じで。

実際一度刈り取った豆苗が次の芽を伸ばして大きくなった時に、「生命だ…私は生命をいただいているのだな…」という気持ちになった。

でも、何度か育って、新しい葉が伸びなくなって、放置してしまっていた。そろそろ処理しなきゃ、と水を捨てたら、水が汚れて膜が張っていて、それが体にかかって、思わず「汚い!」って声を上げている自分がいた。

それがなんともショックというか、自分の浅はかさを感じたというか。

生命をいただいている、なんて感動しておきながら、その生命の先に対して私はこんな仕打ちをして、こんな反応をするんだな、と思うと。

「命をいただいている」と感じることができている、と思っていたのは私の薄い表層の部分でしかなかったのかな、というのが、ショックだった。

 

生き物がみなそれぞれの”勝手”で命をいただき、滅ぼしているとしたら、どうして人間だけが目を背けることを咎められるのか。というと、人間だから、という風にしか答えがまだ見つからないけれど(生命維持に必要な最低限、以上の分量をありとあらゆる命に手を伸ばして食べまくっているのは人間だけだから、みたい、な…)それを咎めているのも人間で。

じゃあなんで感謝して命をいただくのかというと、それが生物全体の生命活動の大きな大きな川の流れの一筋に自分がいるということを感じさせてくれるから…生きてるのが人間だけだと思ってたらお前たちも滅びるよ、という警鐘も含めて…ということなのかな、と思う。

このことを考えていて、どうして人間はそこから目を逸らしがちなんだろう、どうして私は肉の生きていた時の形を感じると恐怖や嫌悪感を抱くんだろう、というところに思い至ったのだけれど、それはまだなんでだろ段階…

 

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こんな感じで!!!例が長い!!!

こうやって経験と照らし合わせて考えること。を、私は安田さんのボク。を読んで、しました。

長々と書いてきたけれど、そして共感してもらわなくていいって安田さんは言うけれど、安田さんを好きでいて、これまでもずっとこうやっていろんなことを考えてはちょっとずつ影響されたり変わってきたりしているんだと思います。

他にも思うことがあったりするんですが、壮大になるのでまたいつか…。