やすばすく

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2021年の夏

村上さん、オリンピックキャスターの大役、お疲れさまでした。

17日間、準備期間を含めれば、きっと何年間にも渡って…本当に本当にお疲れさまでした。

この状況下で、まずは17日間を最後まで走り切ったこと自体が当たり前ではないことだし、

こんなにも賛否が分かれて、参加する側、観る側、双方が複雑な思いの中に居るオリンピックというのもないんじゃないかと思います。

それでも、笑顔でカメラの前に立ち、表情豊かにゲストや選手の声を引き出し、落ち着いた喋りと正確なタイム感を持って時間の中で情報を伝える姿、素晴らしかったです。

 

フジテレビ系列のオリンピックメインキャスター、その一報を知った時にはスケールが大きすぎて全然現実味が湧かなかったですが、試合直後の選手にインタビューをする村上さんの姿を見た時に、なんてすごいところへ登ってきたんだろう、この人は、と、改めて思い知りました。

 

そして、もう心からすごいなと思ったのは、朝でも、昼でも、夜でも、どの日に見ても、村上さんがお日様みたいに目を輝かせて、とっても爽やかな雰囲気を纏ってカメラの前に立っていたこと。ある日はとても可愛く、ある日はすっきりとかっこよく…

彼は、様々な番組の司会進行を務めるプロであると同時に、というか、その前に、アイドルだな!!!と感じました。あんな…くりっくりのお目目……すごかった…

 

勉強、準備、体調管理、そのすべてをやってのけた村上さんもまた、アスリートとは違った形でこのオリンピックにエントリーしていたんだなと思います。

たくさんの興奮を、テレビの前で分かち合わせてもらいました。ありがとうございました。本当に、お疲れさまでした!

リボルバー~誰が【ゴッホ】を撃ち抜いたんだ?~

131年前の明日、ゴッホはその生涯を閉じた。

131年前の昨日、リボルバーで撃ち抜かれて。

131年前の今日、ゴッホはどうしていたのだろうか。

小さな部屋のベッドに横たわり、悶え苦しんでいたのか…それともすでに意識を失い、命の尽きるのを待っていたのだろうか。

そんなことを思いながら、会場へ向かった。

 

 

 

ゴッホはひまわりだった。

テオが土、ゴッホの目に映る風景、人、植物たちが水だ。

そうして、ゴーギャンという太陽に触れて、花を咲かせた。

自分の中から溢れ出す色を、キャンバスに乗せ続けた。

そんなゴッホの生涯と、舞台の上で生きる安田章大という人が、

「命を燃やす」という強烈な一点で重なった瞬間を見た。

…そう感じた舞台だった。

 

 

小説とは異なる部分が大小様々にあり、

特に驚いたのが、登場人物たちの雰囲気とラストシーンの違い。

 

小説ではゴッホ(フィンセント)の主観が描かれる部分はなく、だからこそ舞台の上で感情豊かに飛び回るフィンセントがとても新鮮に感じられた。

まるでよく跳ねるボールのように、何かにぶつかっては大きく弾き飛ばされ、それでもまた違う場所へぶつかっていく。そうして喜びと苦しみを行ったり来たりする姿は、あまりにも純粋だ。

そして、そんなフィンセントを演じる安田さんの瞳は、時に眩しいほどに光を称え、時に闇の中で虚ろにさまよい、私たちと同じではない世界を見ている…そう感じさせる瞳であった。

ファンであることのバイアスがかかっているのではないかと問われれば、そうかもしれない、と答えるけれど、安田さんの瞳には言い知れぬ力が宿っているのは確かだ。だって、この目で見たのだから…。

 

ゴーギャン(ポール)は、よりのらりくらりとした雰囲気と、胸の奥底に持つフィンセントへの愛憎の”愛”の部分が強く出ているように感じた。

池内さん演じるゴーギャンは、その出で立ち、声、存在感すべてが小説から抜け出てきたような質量だった。彼がリボルバーを客席に向けた時、ちょうど銃口がまっすぐ向かう先にいた私は、あまりの気迫に心臓が止まるかと思った。

 

テオは、小説よりもフィンセントに対して”苦悩する部分”がよりクローズアップされているように感じた。そして、パンフレットを読むと制作陣、キャスト陣がテオを「ゴッホの作品に人気が出ると、自分だけのゴッホではなくなってしまうから、絵を売らなかったのではないか」という見方を少なからずされていた、それも驚きで、私にとって新たな視点だった。

だからこそ、兄の才能を信じ、支えぬくというテオの”光”の部分よりもむしろ、兄の才能を確信しながらも同時に兄の存在に恐れも抱いていた、支え続ける苦労と、自分の手を離れていってしまう恐ろしさと…そんな”闇”の部分に、より、スポットが当てられていたのかと思う。

 

ラストシーン、そしてそこへ向かう構成の大きな部分が小説と異なることで、よりドラマチックにストーリーが展開する印象を受けた。

(小説はより緻密に、小さな展開が積み重なっているので、じわじわと大きな波に向けて進んでいく感触がある)

歴史を揺るがす新事実は物語として人々に共有され、ゴッホゴーギャンはより強烈な伝説的存在になったであろう、舞台の世界線

自らの作り出したタブローではなく、二人の人生を大きく変えた(狂わせた、のかどうかはわからない)リボルバーに、高値をつける人々。それを見るゴッホゴーギャンの瞳は、喜びでもない、悲しみでもない、近いとするならば驚き、の色に満ちていたように思う。ああ、そうか、この姿は、舞台でしか見られないのだな、と、今感想をしたためながら思う。

 

 

フィンセントとポール。

罵り合っているのか、褒め合っているのか…側から見ればそんな風に思わせる二人。お互い、もう何が何だか、わからなくなっていたのだろう。

愛し合っているのか、憎み合っているのか…少なくともフィンセントの想いは、愛が強すぎて憎しみになる、そんな形だったように思うが、ポールは一見すると同じ熱量で相手を想っているようには感じられない。

しかしポールが画家としてフィンセントを、テオと同様、もしくはそれ以上に認め、それがゆえに恐れていたのだろうことは強く伝わってくるし、それが彼にとってのつまり”愛とか憎しみ”なのだろうと思う。

 

言葉が彼らの関係を拗らせてしまったのだろうか…

いや、言葉にできない部分の方が圧倒的に大きかっただろう、彼らが互いのタブローに感じていたもの、魂、そういったものは永遠に描かれることなく、彼らのものでありつづける。

私はそのことがとても気高く感じられる。今回の舞台をきっかけに小説を読んだ、ただそれくらいの関わりなんだけれど……彼らが彼らにしか知り得ない感覚、誰にも暴けないものがきっと永遠にあるのだろうということが、とても嬉しい。

 

舞台で大きく小説と異なったシーンのひとつに、「耳切り事件」がある。

あれだけの大喧嘩をして、リボルバーを突き付けてフィンセントを置き去りにし、それでもポールは心無い声からフィンセントの矜持を守った、自らの感情を露わにして。

彼がフィンセントに抱いていたのが、嫉妬心だけであるはずがない。恐れだけであるはずがない。それを象徴するシーンだったように思う。

 

ポールは自らを太陽、フィンセントをひまわりだと称した。彼の中の画家としての炎は、「革新的な作品を生み出したい」という思いによって生まれ、フィンセントとの出会いによって消えることのないエネルギーを得たのだと、そう感じている。

 

自分がテオの重荷になっている。そう気づいた時、一人で生きなければ、と思った時、それができないと悟った時、それはフィンセントにとって絶望だったかもしれない。しかし彼にとっての最大の絶望は、きっと、描けないこと、描くことができなくなること。そんな風に思う。少なくともゴーギャンに出会って以降、フィンセントがその苦しみに晒されることだけはなかった。

ポールのタブローを初めて見て、撃ち抜かれたような衝撃を受けたフィンセントは、その感覚を生涯忘れることはなかったのではないかと、想像してやまない。

 

 

 

フィンセントとテオ。

フィンセントが37歳で亡くなり、その半年後に息を引き取ったテオの享年は33歳。

その歳で、妻子と、兄と、ゴーギャンと、故郷の母と、他にもサロンが抱える若手芸術家たち、従業員たち…どれだけのものを背負っていたのか…そう考えるとテオのすさまじさがより生々しく伝わってくる。時代や性別の違いはあれど、自分に置き換えて想像してみれば、それこそ想像を絶する…そんなこと到底無理だ、と思えるようなことを、テオはやってのけたのだと、驚くばかりだ。

 

どれだけ罵られ、支えることが苦しくなっても、兄を切り捨てなかったテオ。パンフレットの年表を見ると、あまりにも、「兄とゴーギャンを支えることが使命だ」、と意味づけてしまうことが仕方ないと思わされるほど…

傍から見れば、やっと兄から「解放された」ともとれるかもしれない。けれどそれが逆にテオの心を壊してしまった。兄と、兄の才能を守り続けることこそが、テオ自身の心を支えていたのかもしれない。たとえつらく、逃げ出したい役割だったとしても。

なんという人だったのだろう。フィンセントも、テオも。

 

家族愛、兄弟愛、とひとくくりにするにはあまりに複雑で、(一見すればシンプルなのに、)ポールとはまた違う憎しみの形も持ち合わせていた二人の関係。

けれど、テオが、そしてテオの妻が、フィンセント=ファン=ゴッホの作品を世に出したことで、130年余り後の今もこうして、フィンセントのタブローが、そしてフィンセントにまつわる物語の数々が、人々の目に、心に、触れている。

 

テオが土となり育て続けたフィンセントの花はこうして、100年以上も咲き誇り続けることとなった。すべては彼らがいなくなってしまってからの出来事で、どこまでも悲しく、けれども希望を抱けるのは、テオのとてつもない、とんでもない、それこそ歴史に残る功績だ。

彼らを描いた物語に、今、拍手を送れることに喜びを感じた。

 

 

 

フィンセント=ファン=ゴッホ

酔いつぶれた後、目覚めたフィンセントのテオを呼ぶ声。ポールが黄色い家にやってきた瞬間、すべてのエネルギーを喜びとして燃やしたフィンセントの姿。どこまでも無邪気で純粋な、子供のようなフィンセント。
酒に酔い、人を罵り、歯止めが利かないほどの行為に及ぶフィンセント。怒り、自暴自棄、恐れ。描く喜びと生きる苦しみを止まることなく行き来していたフィンセント。

 

自傷することでしか自分を止められなかったのね」と冴は語った。

あの行為を、耳切りという行為を、これ以上聞かせないでくれ、僕の知らない真実を、君たちの本音を……そんなフィンセントの叫びのようにも感じた。
彼が畏れていたのは、唯一の理解者であるテオが、戦友のような存在であるポールが、自らを忘れ離れていくこと。そして、自分が誰からも認められず、絵を描くこともできなくなること。彼の心の真ん中にあるのは、タブローだけ…

 

ゴッホが画家を志してから没するまで、10年。たったの10年。ゴッホは命を燃やして絵を描き続けた。

もっとゴッホが絵を描き続けられる世界だったなら…、と惜しむ気持ちでいっぱいだけれど、流れ星のような10年間…それ以上生き続けることは、ゴッホにとって果たして喜びだっただろうか、と、そんな風にも思う。

一人ではうまく生活することができず、テオに頼る他なく、それでも自らの中にある描くことへの欲求にはいついかなる時も忠実である、逆らうことはできない…。テオの肩の荷を下ろしてやりたい、独り立ちしたい、だけどテオから離れたくない、理解者を失いたくない、描くことだけに注力していたい、そうすることしかできない…

身も心も二つに引き裂かれるような世界を、彼は生きていたのかもしれない。

 

 

 

安田章大

生身の安田さんを見るのはいつぶりだったろう。

そこに居るのが安田さんだ、と思うと心配ごとがいろいろと浮かぶ。骨と皮だけの胸元、照明の光……だけどその瞳は確かに、フィンセントの思いを映していた。ぞっとするような、これまでに出会ったことのないような表情を浮かべ、細胞の全部をつかってフィンセントで在ろうとしている(この舞台の上の、フィンセント=ファン=ゴッホという人物として)姿は、何を惜しむこともなくすべてを捧げているようだった。

それは、神事と少し似ているように思う。

  

どんな役を演じていても、それは演じる、という姿ではなく、命を燃やしている、と…そう感じるようになったのは、安田さんがの病を知ってからだろうか。

いや、そうではない。知る前から、たしかに私は、舞台上に燃える"何か"を見ていた。…わからない、今になってそう思うのかもしれない。今、そう感じている、それだけは確か。

 

舞台上のフィンセントはどこか、この世界とは違う地平をその目に浮かべていたように感じた。人それぞれ、持っている体も部品も違うから、厳密にいえばみなそれぞれ違う世界を見ているのだけれど、もっと…

安田さんには、見えている、というより”見ている”世界があるのだろうな、それは私には見ることはできないけれど、安田さんを追いかけている間に、いつかもしかしたら、少しだけ垣間見ることができるのかもしれない。

 

心配はいつだって尽きないし、おかげで私は自分のファン活動のスタンスを微調整しながら、自分の心の平穏を保つこともバランスをとりながらできるように、…なったのかな、なっていないかもしれない、それを目指して修正を繰り返しているのだけれど。

…ただ安田章大という存在を、その燃える姿を心の中の神棚みたいな、神聖な、大事な場所に置いておくこと。その姿に励まされ、心が躍り、活力になること。
私の、いろんな愛するものたちがひしめき合う神棚の中で、特製の座布団に座っているのが安田さんなんだなと、そんな風に思った。これは、舞台の感想じゃなくて、個人的な気持ち。

 

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この状況下で舞台を観に行くことへの、不安、何が正解なのか、という葛藤との戦いもあった。たくさん考えて、考えて、行くことを決めた。

明日からまた私は、昨日までと同じように、外食もほぼせず、家族以外と会わず、遊びにもいかない日々を続ける。それは舞台に行く行かないに関わらず、選んでいることだ。

私が選んだ今日が不正解なら、その分を日常生活でカバーする。…できるものかわからないし、理屈の話になるかもしれないけれど…。

これはただの言い訳。だけど、行けて良かった。

揺るがない息吹を

3月に放送されたこの番組を、録画したまま見ることもせず5月になっていた。

もっと言うなら、昨年10月に放送されたサワコの朝も、もっともっと言うならGR8ESTのメイキングだって、見られないままでいた。

 

今日、安田さんがボク。を更新して、それを読んでやっと決心がついて、まだ勇気はなかったんだけれども、ええい!という気持ちで、「ザ・ヒューマン」の再放送を視聴した。

 

そこにはただただ、安田章大という人がいて、安田章大という生き方をしていて、そのことを画面の向こうのひとりの私にも教えてくれた。

見ている間はじっと画面の向こうの安田さんの姿と声を追っていたけれど、見終わって10秒くらい経ったら、洪水みたく感情があふれてきて、一緒に涙も出てきた。でもそれが、安心なんだか、悲しみなんだか、辛さなんだか喜びなんだかよくわからない。

ただただ、安田章大という人が、自分の中を熱く沸騰させる人であることを、あらためて強烈に感じた。

 

 

私はたぶん、怖かったんだと思う。

 

自分が、アイドルという存在に強いこだわりを持っている人間だという自覚があった。

自分が、これまで安田さんに、関ジャニ∞に、それから他にも好きないろんなアイドルの人たちに、望んできたもの、押し付けてきたものの大きさを感じていた。それがアイドルという職業の性だとされていたとしても、願望が何十万と塊になって、最終的に一人の人間にぶつかってゆくのだ。

であるがゆえに、自分が応援している、と思っていることが、結果として大好きな人たちを苦しめる一因に、ほんのほんのほんの一滴であってもその流れの一部になってしまうんじゃないかという葛藤は、ずっとあった。

アイドルというステージに、縛り付けてしまっていることは、彼らにとって幸福なのか、そうではないのか、だとか、そういう極論的なことを考えては、壮大に考えすぎなんだ、私はただただ一滴として自分に合った形で楽しめば良いのだ、と自分を諭すみたいな、禅問答みたいなことをしていた。

 

ありのままの自分、素のままの姿を届ける安田さん、そして、大きな病気と大きな怪我を抱えたこと、もしかしたら命を落としていたかもしれない、もしかしたら表舞台から立ち去っていたかもしれない、そういったことの一つ一つを、知ることで、

自分の抱いてきた憧れや夢が、すべて苦しみに塗り替わってしまうんじゃないかと、彼を憧れのアイドルとして見つめる眼差しより、それ以外の感情の分量が大きくなってしまうんじゃないかと、そんな恐怖があったんだろうなと思う。

こうして文字にしてみるとずいぶん自分勝手だなと思うけれど、私は私で、私の毎日を生きることに必死だから、それもまあ仕方がないよな、とも思う。

 

だから、応援しているけど、応援してるって言ってるけれど、安田さんの発信するありのままを受け止めるまでに、勇気がいったし、決心がいった。10年以上ファンしてるのに、我ながらずいぶんと情けないよなあと思いつつ、再生ボタンを押すことのハードルがどんどんどんどん高くなってしまっていた。写真集も、一度開いて大泣きしてから、まだ二度目を開けずに飾ってある。

 

安田さんは、表には出さない考え、見せない顔、たくさんあるんだろうし(それが当たり前のことだろうし)、そのことが彼自身を苦しめたことだってきっと想像できないほどたくさんあるのだろうけれど、

安田章大という人の、生き方も考え方も、少なくとも私が好きになった日からずっと「連続しているもの」だと感じている。この番組を見て、あらためてそう思う。

筋が通っているとか、軸がぶれないとか、いろんな言い方があると思うけれど…「繋がっているもの」、「紡がれているもの」、そんな言葉がしっくりとくる。

安田さんは、変わらないのでも、すべてが変わるのでもなく、ずっと安田章大でありながら、変わらずに変わり続けている。

 

そして、いつだって、やすくんは世界に向かって両手を広げているのだ。

 

多くの人は、(私もふくめて、)世界が自分のためにあってほしいと願うけれど、

安田さんはきっと、自分が世界のためにある、と、そんな風に心の底から思っている人だ。

それはいつからなんだろう。わからないけれど、少なくともここ10数年、メディアやステージを通して見る彼からはずっと、「自分は世界のために」の心を感じている。

そうして、2017年を経て、それがより積極的な形で現れるようになったんだと思う。

 

そんな安田さんを見て、感じること、考えることは年々増えていく。

時にはそれで勝手につらくなったりもするけれど、一人の人間を「好きだ!」と思って、じっと見つめて、じっくり感じて、考えることは、とっても豊かなことだ。

そうして、時折のつらさや悲しみの何十倍何百倍何万倍の、幸せを受け取っていることを、私はいつでも忘れないでいたいと思う。

 

感じて、考えて、けれど、ずっとそうしている必要はなくって。

なんてかっこいい顔なんだろう、とただただ見とれる時間や、行動も言動も可愛い可愛いってひたすら愛でる時間や、歌声やパフォーマンスに力をもらう時間を過ごしながら。

自分のペースで、向き合ったり向き合わなかったりしながら居たい。

そうすることに、誰の許可もいらない。罪悪感も、いらない。

やすくんを好きだから感じられることを、ひとつずつ拾い上げていきたい。

まったく、すげえ人を好きになったもんだ、私。

 

(今日をきっかけにサワコの朝も見ることができました、ありがとう。とても素敵な番組で、見ることができて良かった…!)

ブリュレ沸点突破

ブリュレに沸き立ち爆発した己のパッション(ツイート)の備忘録

 

 

・「柔らかいのを」の安田さんの手つきがエロティックダイナマイトで私の中の”この手がいい!TOP10”ランクインですおめでとうございます(1位はパッチコン・モノグラムの村上さんの「確かな手触り」です)

 

・最後の天を仰ぎながらも両手を拘束されるのポーズ(語弊)メチャメチャ好きなんすよ…最初に見た時「アイドルにこのポーズをさせる禁忌感!!!!!!!!」って興奮したのを覚えてますし今も興奮してますし🍣

 

・踊り終わって「関ジャニ∞のみなさん、ありがとうございました!」の後の大倉くんのあの「ハア」って感じ、終わった感じがグッとくる

 

・やすくんどんだけ足上がるんすご……と思って一時停止してみてたら後の横山さんが180度くらい足上がってて度肝を抜かれた 横山さんはコンパスなんか

 

・煩わしそうに前髪をスッ……と分けるまるちゃんマジのマジでマジ(何語) この髪型の丸ちゃんは”夜”だと思うんですもう 闇夜にこれ この髪型は闇夜

 

・いろんなアングルで眺める際の安田さんの足の角度どうなっとるん 関節どうなっとるん 好きやわ~~~~~好きやわ~~~~~~~その体中の筋肉の細胞のすべてをつぎ込んで踊る感じが好きやわ~~~~~~~~~~~~あ~~~~プレミアムフライデー(大の字)

 

・大倉さんソロ、喉が違う!!!って感じがした!!!!声の出し方というか喉が違う!!!

 

・喜んで平らげる直前の横顔で安田さんの耳に輝く星々と丸くぽっかりと開いたブラックホール あれは宇宙だ

 

・喉の浮き出る血管に「キャーーー!!!」となっていた数年前の私 今の私はそこに「やすくんが生きている」という喜びをさらにもっと感じられるようになったのである

 

・ラスサビ前の足踏みがブリュレの中でも大好きポイントなんですが5者5様それぞれのテ~ッテテレレ~テ~テ~テ~テ~!で素晴らしかった。頭を思いきり下げてワイルドみのある大倉さん、ターンから足踏みまで一切のブレがなく美しい安田くん、えげつない速度のターンからの足踏みに品のある村上さん、足踏みしながら手が徐々に上がっていくことで流れるように次の振りにつながりストーリー性を感じる丸山さん…そして、頭を思いっきり振ってその勢いで回るようなとにかく”やんちゃ”大爆発な横山さん最高だった

 

・心触れるたびに揺れる安田さんの歌い方の角度、視線運び、体の動きがすばるさん!!!!!!!!!!!!!!って思う私は幻影の中に生きているのではなく、安田さんの中に彼らの血を見ているのです

 

・横山さん、金髪で白肌であの衣装で下を向いてセンターに立っているだけで優勝してるのすごいな

 

・ザラメ糖を焦がしたクレームブリュレの合間に村上さんと大倉くんのわずかな隙間からキュート&クールな指差しかましてくる横山さんすごいな おめえ強えな!!!(悟空先輩)

 

・私は山田のダンスが好きだ 爪の先まで表現の血が注がれている安田さんのダンスと、得体のしれない上品さとやらしさを体中から滲ませる丸山さんのダンスが好きだ…山田…月と太陽……

 

・間奏で手を突き出すと同時にお尻をものすごいキュっと突き出している村上さんにperfumeの村子ちゃんを感じた夜

 

 

ブリュレはいいなあ~~~~~~~~(大の字)

繊細鉄人39号

村上さん、お誕生日おめでとうございます。

クロニクルでしこたま笑った嬉しい気分のままこれを書いています。

次回予告が面白すぎてハッピーがすごい。ボケ的違和感を絶対に逃さない村上さん…職人というよりもはやツッコミは信ちゃんの血液…

 

「関西の強気なオカン」だった信ちゃんが、

近年では「ちょっと天然が出て柔らかくなったけどやっぱりオカン」で、

メンバーに向けるその滲み出る慈愛の表情にたまらない安心の気持ちをいただいています。

自然体…と言われる時の姿の信ちゃんが一番可愛い。

 

そして近年といえばじわじわと、そして確実に

横山さんへの愛情表現がまっすぐになってきている村上さんの愛おしさ。

728の日やクロニクル(缶詰シリーズ)で大爆発していましたが、

「うちの横山さん」をものすごくまっすぐに自慢するその心の在りよう、

それに呼応する横山さん(そして照れる横山さん)。

そんな二人の姿が、関ジャニ∞のファミリー感の要のように感じています。

サザエさんクレヨンしんちゃんのような、のどかで愉快な雰囲気が、

ヨコヒナを中心としてふわっと関ジャニ∞を包んでいるかのような。

なんたるハッピーな世界……

 

グループのためになる、と思えば果敢に飛び込んで必ず成果を掴んで帰還する、

わからないこと、知らないことを「知る喜び」として享受し、吸収し続けられる、

たれ目と八重歯が可愛いひなちゃん。(←ここはいつまでも揺らぐことのない真実)

なにとぞ、ファンの前でたくさんこれからも、

はしゃぐ姿を見せてもらえたら嬉しいです。

(いつもテレビで見る姿に対して、はしゃいだり天然を見せたりする姿は、すっごく、特別感があります)

 

あと村上さんに千年メドレーのような低音&高音両方堪能できる曲を歌ってほしい、千年メドレーの歌声があまりに好きすぎるのでこれはずっと言います。村上さんの囁きメロディーを引き出す曲を作曲家さん編曲家さんどしどしお願いいたします!!!

 

信ちゃんが心身ともに健康に一年を過ごせますように。

お誕生日おめでとうございます!!!!!

to youで救われた魂の話

ジャニーズWEST配信ライブWtrouble、大変楽しく拝見しました!

ユニット曲で失神しそうになりながら、毎日あっという間の2時間ちょい、忙しい日々の心が洗われる時間となりました。

 

なんてするりと書き始めていますが、ここ半年ほどで急速にWESTの沼に落ちた、いやWESTという空を見つけた私です。こんばんは。

経緯は長くなるので省きますが、今現在は関ジャニ∞モーニング娘。'20にジャニーズWESTに大忙しの日々です。好きが増えるっていうことが、新しい世界を知ることだなあと改めて思う。そして、HDDの容量というのは空けても空けても足りなくなるものなんだなあと思う。毎週一日編集に費やしている。

 

表題の話。アルバム『Wtrouble』を初めて聞いたのは夏の始まりくらいで、だから雑誌のインタビュー等々を全く読んでいなくって、重岡くんがどういう想いでこの曲を作ったのかを知らないけれど、

この曲に亮ちゃんの、すばるさんの、エイトの後姿を感じて、聴きながら何度も泣いて。

今回のライブでも、この曲を聴きながらやっぱりエイトを想って泣いて。

それが良いことなのか悪いことなのか、失礼なのかもわからないまま泣いていて。

 

でも、とても、この曲をきっかけに、自分の気持ちが良い方へ向いたことは強く感じています。

今年の、怒涛のような数々の発表の中、ジャニーズを去っていく人たちの背中に寂しさと、ある種の憤りを感じたこともあったし、なんだか心がずんと沈んでいたけれど、

to youのように、自分の心を素直に受け止めて、それでもこの先が、未来があるんだって顔を上げて歩いていきたいと、そう思うことができました。愛を変質させずに、愛のまま心に生かし続けていたい。

そして、エイトからそうかけ離れていない場所でそういう体験ができたことが、驚きだったし、ありがたくもあったなと思います。

 

ありがとう重岡くん。

 

とにかく推し大渋滞の728の日を円盤化してほしい。そう強く心に思う今日この頃です。

元気印は雲の味

丸山さん、37歳のお誕生日、おめでとうございます!!!!!

いつも笑顔と幸せと時折の狂気をありがとう。

(ベスアの余韻と共にこれを書いています)

(十数秒の間に笑顔も恐怖も植え付けるあれは丸ちゃんにしかできない所業)

 

パワーあふれる関ジャニ∞、そして笑顔いっぱい、元気印満点の丸ちゃんを見て、今日の私は心からホッとして、そして元気が出たのです。

心配だなんて言われたくはないかもしれないけれど、めちゃめちゃに心配だったんだもの。

きっとものすごく繊細な丸ちゃんの言葉の節々に流れ出す感情に、勝手にあれやこれやと想像を膨らませては勝手に心配になっていただけなんだけれど、

そんなあれこれを自らで吹き飛ばしてくれる丸ちゃんにごめんなさいとありがとうの気持ちです。

すごい、今ものすごいめでたい気持ちになっています。

鮫の汁がどんな味なのか、想像せずにはいられません。

丸山隆平という人の余白の部分を、私はこれからも勝手に楽しんでいたいのです。

 

見る角度によって、魅せる角度によって全く違う色が見えて、覗き込んでいたくなる人だと、私はそう思っています。

だから今日の丸ちゃんどんなかな、って、いつも楽しみになるのです。

 

ずっとひたすら笑顔でいることが正しいわけじゃなく、

人生のいろんな要素、味、そういったものがたくさん蓄積されて、

オリジナルの丸ちゃんブレンドがこれからもたくさん生まれますように。

体と心が健やかに、おいしいものにたくさん出会える日々でありますように。

いつもありがとう。お誕生日おめでとうございます!